面倒なことすべて投げ出して 病室には鉄格子があるから、檻の中にいる感覚は否めない。 それでも、喉を通る黒い液体がある限りそう気にならないという感覚も嘘ではない。 とっくの昔に、光は闇にすり替わり、不細工な機械を顔に纏わない限り視力というものも存在意義がない。 今は敢え使わないその道具のせいなのか、聴力は鋭くなってきたようだ。 部屋の外から響く足音に二つの名を持っている男は、手にしたカップを満たした液を喉に流し込むのを一度止める。 密やかな会話と施錠を外す音。扉が開けば、足音は更に近付いた。 「今日も面会だったのかい? コネコちゃん。」 「どうにも、その呼び方には抵抗があるな、えと…。」 戸惑う声と同時に、近付いていた足音は消えた。 「ゴドーでも、神乃木荘龍 でも、好きに読んでいいぜ。」 「じゃあ、神乃木さん。」 チャラチャラした態度とは裏腹に、妙なところで生真面目な(目上に対する礼儀)を見せる響也に、ゴドーはくくっと喉を鳴らして珈琲を煽った。 ゴクリゴクリと飲み込む音を聞き、響也は溜め息を吐いた様子だった。 「どうした? コネコちゃん。」 「だから、その呼び方…。もう、成歩堂さんの気持ちが分かるなんて最低だね。」 因縁深く、そして聞きなれた名前にゴドーは顔を声のする方向へ向けた。 「まるほどうがどうした?」 もう一度聞こえたのは、クスリと笑う声。成歩堂と呼んだ直ぐ後に、まるほどうと呼ぶゴドーが可笑しいのだろう。それでも、ガサガサとビニール袋を漁る音がして、ベッドの上に無造作に置いていた手に袋が握らされる。 「貴方に渡して欲しいって、ナントカっていう里から遊びに来た子が胃に穴が開く前に、神乃木さんに…だそうです。」 「俺の身体はとっくの昔にボロボロなのにご苦労なことだ。」 毒から目覚めた身体は、視力や頭髪といった外見だけでなく、体内にも立派な不具合を時限爆弾の様に残していった。それがいつ最後の時を刻むのかは、持ち主であるゴドーにもわからない。 「アンタ、兄貴はあってくれたかい?」 問い掛けたゴドーに、響也の返事はない。飴の…恐らく珈琲味だろう…袋を、ベッドに置いて、ゴドーの手は空を彷徨って後に、響也の腕を捕らえた。ポンと軽く叩いてやれば、ゼンマイ仕掛けの玩具のように動き出す。 「…駄目だったよ。」 響也の兄も、ゴドーと同じ警察病院の一室にその身柄が置かれていた。 「兄貴は、この七年間で精神を擦り減らしてしまった。馬鹿だよ、兄貴は」 芸能人であり、検事でもあるというコネコちゃんのポツリ、ポツリと喋る声は、恐らく他の誰も聞いた事がない声色なのだろう。不味いと知っている珈琲を敢えて飲んだ後の心境、それに違いない。 敢えて飲む心境は、それはそれで立派なものだが。 ただ、聴覚だけが情報源となるこの状態を好ましいとは思わなかった。不穏な方に傾いた想像など、思いつくだけ不毛な事だ。 「すまねぇが、その不細工なものを取ってくれないか。」 「え? あ、うん。」 はっと気付き、足音が近付く。実際は、視力が全く失われてはいないので、それの在り処程度の事なら己で探れたが、そっと目元に押し当てられる機械を両手で支える響也の手を掌で包む。 「神乃木…さん?」 「そのまま持っててくれ、留めるまでだ。」 指の腹で探るように響也の手を指先になぞる。微かに震える相手の身体にクッ…と唇を歪めた。それでも視力を戻した世界にいる響也は、初めて会った時と変わらぬ笑みを浮かべて覗き込んでいた。 「勿体無い気もするな、アンタ凄く良い男だから。」 「砂糖を入れすぎた珈琲は、風味を損なうぜ、コネコちゃん。」 そう告げてからゴドーは口角を持上げる。「…いや、多いのは、ミルクか?」 途端、響也の表情が歪むのが見え、それが可笑しくて嗤う。 「ど〜せ、僕はコネコだよ。それも何?乳臭いコネコって訳? 成歩堂さんは格上げしたらしいのに、随分じゃないか。」 「あれは、ノラ猫のコネコちゃんさ。」 「何それ。」 呆れた表情で、離そうとした手を捕まえる。変わらぬ距離のままゴドーは囁く。 「ここにいるのは、血統書付きのコネコだな」 「なっ…。」 カァと赤くなっている顔を見る事が出来ぬのは少々残念な気がするが、ムッとなる表情は忘れえぬ女に似ていた。正確に言うと一昔前のまるほどうにも似ていて、芯の強い者の、一種弱みを見せる顔というものに自分は弱いのだとゴドーは思う。 「俺も、弁護士をやっていた頃に、牙琉霧人とは面識がある。確かに自尊心の高いコネコちゃんだったな。」 「神乃木さんが弁護士だった頃って成歩堂さんも、兄貴も学生だったよね?」 そう問いかけて、確信が持てなかったのが思い返す様に瞳を泳がせた。 その隙をつくように、ゴドーは響也の手を開放する代わりに纏められた淡い色の髪に指を絡める。綺麗に整った髪も、指先でほぐせば、すんなりと柔らかな手触りの糸に変わる。 「アンタ、なにして…。」 冗談は髪型だけにしておけよ。と、成歩堂に常々言っているが、響也の髪型もある種「冗談」に近い。 「コネコちゃんは、どうして同じ髪型なんだ。」 『う』と一瞬息を詰めて、はあと吐き出す。言い辛そうに口をモゴモゴしていたが、答えない限りゴドーの指から開放されないと悟ったのだろう。渋々と口を開いた。 「…好きだったから、だよ。ブラコンだって笑っていいよ。アンタだってそう思ってるんだろ?」 へぇ。 口端を上げるだけで、ゴドーは笑みを演出する。 彼の目を覆っている機械に奪われ、瞳を覗き込む事も出来ず。しかし、心の奥まで見透かされているような、そうでなれければ、自分の些細な対抗心だの執着心だのが全く相手を動かせない気がして、酷く悔しく思えた。 昔は、『アンタだって、昔は若かったんだろ』などと反論もしてみたが、『もちろん、そうだ』と相手にされる事もなく軽くかわされれば、自分の了見の狭さにウンザリする羽目になる。 歳の差などというものは、片方がその営みを止めるまで縮まらないものだけれど、こういう時は一足飛びに、同じ歳になりたいと響也は願う。この男と同じ目線で、この世界を見てみたいと思う。 きっと、自分が感じている事、思っている事全てが、違って見えるだろう。 content/ next |